高島秋講は、江戸時代後期の寛政年間(1789~1801)に始まったとされます。
これは、第11代将軍・徳川家斉の時代で、松平定信(1759~1829)が「寛政の改革」を推進した時期に当たります。天明の大飢饉(1782~1788)からの復興のためもあり、寛政の改革は極めて厳しい倹約策で知られます。それは、
「白河の浄きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」
と揶揄されるほどでした。
その一方で、寛政の改革では、多方面にわたる学問振興も行われました。 真宗大谷派でも、既に学寮が設置されてはいました。しかし、制度として整ったのは、寛政頃だったのです。
釈尊の頃より、雨期には遊行をやめて聞法に専念しました。これに擬えて、学寮での教学研究の機会は「 安居 」と呼ばれます。
ちょうどその頃に、東本願寺の高倉学寮で講師職にあったのが、福井県出身の 香月 院 深励 (1749~1817)でした。「講師」とは、現在では大学の学長のような立場です。深励は、真宗の教えを学問的に体系化しました。明治以降の近代教学も、深励の学問を基礎に置いています。深励は、高倉学寮ばかりではなく、門徒宅などにも出向き、積極的に教化活動を行ったことでも知られています。
高島の地の有志が、その深励に対して、福井の自坊と京都の高倉学寮との間を移動する際に、この高島の地で30日にわたる教化をしてくれるよう願い出たのが、高島秋講の始まりだと伝えられています。
「実際にはもっと以前からあった」とか「講者を務めたのは深励ではなく、安居に懸席した聴衆であった」、「講者は、学寮から派遣されていた」、等など、さまざまな言い伝えを聞いたことがあり、実際のところはどうだったのか、分かりません。
もっとも、このように様々に言い伝えられてきたということが、既に高島秋講が地域の人びとに大切にされてきたことの表れだと言えるかも知れません。
現在でも、高島秋講は、本山の安居に準じる秋安居の中でも、全国最大級のものとして位置づけられています。
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